今回は、私がはじめて子どもの小学校で図書ボランティアとして「読み聞かせ」をした時に読んだ『おおきな木』を紹介しますね。
『おおきな木』ってどんなお話?
『おおきな木』は、小さな男の子と、庭にあるリンゴの木の対話で進んでいきます。
小さい頃はいつも木の側で遊んでいた男の子も、成長するにつれちっとも顔を見せなくなり、久しぶりに現れたと思ったら「お金がほしい」「家がほしい」と自分の欲求ばかり。
でも、木は嫌な顔ひとつせず、大好きな男の子に何かを与えてあげられる喜びにいっぱいで、リンゴの実も枝も、ついには幹まで与え、切り株になってしまいます。
だから原題は『THE GIVING TREE』、つまり「与える木」なんですね。
すべてを与えて、何もあげるものがなくなってしまった木は、年老いた男(の子)に、いったいなんと言うのでしょうか…?!
実は、『おおきな木』は、日本では二種類あります
ちなみに、この本は、1976年にほんだきんいちろうさん訳で篠崎書林から出版され、30年以上読み継がれてきましたが、2010年、村上春樹さん訳で新しくあすなろ書房から出版されています。
私の手元にあるのは、上記の旧版の方です。(Amazonでも、もう中古しか手に入らないようですね。)
新版はこちら。↓
ちょっと緑色が薄いくらいで、見た目は2冊ともほとんど原著と変わりません。
訳も9割方よく似ていて、村上氏も、旧版のイメージを壊さないよう気を遣った感じがします。
ただ、一番のキーワードになる部分。
“but not really”
この一文を、旧版では
「だけど それは ほんとかな。」
と訳しています。
新版では、
「なんてなれませんよね。」
と訳していて、ここが大きな違いとなっています。
このために旧版の方が好きという人も多いんですね。
私も、慣れ親しんでいることもありますが、やっぱり、読み聞かせをしていても、
「ほんとかな。」
と問いかけて、少し間を置くと、子どもたちがそれぞれに考えているのがはっきり分かるんですね。
これを、「なれませんよね。」と言ってしまうと、聞く方に考える余地がなくなっちゃうのかな…と思います。
原文は疑問文ではないので、村上春樹さんの訳しかたが正しいのかもしれませんが、私は読んでいていつもそう感じています。
木の心境は、誰と同じ?
本って、読む人の年齢や立場によって、時には180度とらえかたが変わることがあります。
この本もまさにそれではないでしょうか。
(私を含め)子どものいる人、または大切にしてくれた親のいる人はすぐに、この木の心境は誰と同じなのか、手に取るように分かることでしょう。
でも、夫は最初そのことがピンとこなかったみたいで、私が話すと「おお!そういうことか!なるほどな~」とびっくりしてました。
小学6年生に読んだ時も、子どもたち、ふざけて「この木、ドMやな」なんて言ってましたが(^^;)心の中ではちゃんと分かってると思います。
もし、「自分は親(と呼べる存在)がいなかったから、親の気持ちって分からない」という人がいたら、いつか自分自身が親になる日のためにも、ぜひ読んでほしいです。この本で、それが自然に理解できるのではないかと思うから。
「きは それで うれしかった。」
なんです。
おまけ・裏表紙について
読み聞かせが終わると、たいてい子どもたちは、しばらく静かに余韻にひたってくれています。
で、教室を立ち去る前にちょっと笑いを取りたい私は、いつも裏表紙を見せてます(笑)。
裏表紙には作者の写真が大きく印刷されていて、そこだけは謎のデザインなのですが…。
↓
↓
↓
どん。
…ちなみに、新版にはこの写真はありません。そこも私が旧版が好きな理由かも?!
まあ裏表紙はともかく、全ての人に読んでほしい名作です。ぜひ、お好きな方をお手元に!
(旧版・ほんだ きんいちろう訳)
(新版・村上春樹訳)